【生麦事件】
1862年9月、幕政改革のため江戸城入りしていた薩摩藩国父島津久光が、目的を果たし京都へ戻る途中の出来事。久光の行列が武蔵野国生麦村付近に差しかかったとき、乗馬で日本見物中であった英国人一行4人と遭遇する。日本の風習や言葉を知らなかった一行は、騎乗のまま久光の駕籠付近まで近づき列を乱してしまった。激怒した薩摩藩士らは、無礼討ちとして英国人らに斬りかかかり、1人が死亡してしまうという国際的事件が発生する。激怒したイギリス代理公使ニールは、幕府側に謝罪と10万ポンドの賠償金、薩摩藩に対して犯人の公開処刑と、2万5000ポンドの賠償金を要求。これに対し、薩摩藩が要求を拒否し続けることから、翌年、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に現れることとなる。
【薩英戦争】
1863年8月11日、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に現れる。イギリス側の目的は戦争ではなく、生麦事件の賠償問題に対する直接交渉であった。イギリス側は、改めて犯人の逮捕処罰と賠償金2万5000ポンドを要求。薩摩藩側が時間稼ぎを行い、回答を出さないことから、しびれを切らしたイギリス側は、8月15日薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段にでる。(この時に後の英国留学生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となる。)これを開戦の意思と受け止めた薩摩藩は天保山砲台から砲撃を開始し、英国艦隊との間で激しい砲撃戦を展開。薩摩藩側は鹿児島城下北部が焼かれ、諸砲台が壊滅的損害を受けることとなる。また、イギリス側も、弾薬庫の前に幕府から受け取った賠償金が積み上げられており、戦闘準備に時間を要したため、死傷者は60余人に及んだ。思わぬ苦戦を強いられたイギリス艦隊は、鹿児島湾を去り横浜に戻っていく。その後、横浜のイギリス公使館で3回に及ぶ講和談判がおこなわれ、薩摩藩が2万5,000ポンドを幕府から借用して支払うことで和解が成立する。交渉中に薩摩側がイギリス側に軍艦購入の周旋を依頼したことから、以後、薩英の間に親密な関係が築かれていく。
【五代友厚上申書】
松木弘安(寺島宗則)と共に薩英戦争時イギリス側の捕虜となり、罪人扱いとなった五代友厚は幕吏や攘夷派から逃れるために長崎に潜伏していた。ここでトーマス・グラバーと懇意の間柄になり、世界の情勢を知り危機感を感じた五代は、1864年6月頃、薩摩藩に対して今後の国づくりに対する次のような上申書を提出する。「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得してこないと世界の大勢に遅れ、国の発展に役立ちません。」この上申書には、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていた。これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に五代の上申書が引き金となり、イギリス留学の方針が決定されることとなる。
【留学生一行の決定】
1865年2月13日、視察員4人と、薩摩藩開成所を中心に留学生15人が選ばれ、留学渡航の藩命が下された。鎖国中の最中、洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」で、一人ひとり藩主から変名を与えられていた。城下を発つ前日、攘夷思想を持つ3人(畠山丈之助、島津織之介、高橋要)が留学辞退を申し出る。その後、畠山のみが島津久光の説得に応じ、辞退した島津と高橋と同じ家格から村橋直衛と名越平馬が選ばれることになる。
【羽島での滞在】
1865年2月15日、使節団長の新納に率いられ鹿児島を出発した留学生一行16名は、苗代川(現在の日置市美山)に一泊し、翌日、市来湊から船に乗って羽島に渡った。留学生一行はグラバーが用立てた船に乗船することとなっており、その船が長崎から羽島沖に迂回されることになっていた。 留学生一行は、船が来るまでの2カ月余りの間、海沿いの藤崎家と川口家に逗留しながら勉学に励み、渡航に備えた。1865年4月14日、英国渡航に係る手続きのため長崎に滞在していた五代、松木、堀の3名が羽島に到着し、留学生一行と合流。1865年4月16日、乗船する蒸気船「オースタライエン号」が羽島沖に現れる。その後、荷物を積み込み、羽島沖で停泊する船内で寝ることとなる。
【旅立ち】
1865年4月17日、旅立ちの日を迎えた留学生一行は昼前に出航する。密航留学のため、自分達の思いや感情を素直に語ることが許されなかった彼らは、それぞれの思いを和歌に詠んで、逗留先に遺した。
君か爲忍ふ船路としりなから けふのわかれをいかて忍ひん 純常(畠山義成)
花ならぬ影も匂ひて羽島浦 更にゆかしき今日にもあるかな 和彦(松村淳蔵)
【英国までの旅路(香港)】
羽島沖を出発した留学生たちは、乗船して直ぐに刀を取り上げられた。イギリス人や中国人の船員に囲まれ、飛び交う言葉は外国語、また慣れない食事…船内は既に外国であった。留学生の中には覚悟を決め、髷(まげ)を切る者もいた。
1865年4月21日の夕刻、香港に到着。ガス燈で彩る香港の夜景に見惚れた彼らは、感嘆の声を上げる。同時に、薩英戦争時に戦った英国戦艦「ユーリアラス号」が停泊していたことにも驚く。洋服を仕
立て上陸した彼らは、紅茶を飲んだり、時計を買ったりとそれぞれ香港の街を満喫した。
1865年4月29日、P&O汽船会社の客船マドラス号に乗り換えた一行は、次の目的地に向かった。
【英国までの旅路(シンガポール)】
マドラス号は、乗船人数250名、客室30室の蒸気客船で食堂、浴室、トイレが完備されていた。洋式の便器を初めて見た五代友厚は、きれいな陶器に水が流れる便器を見て、洗面器と勘違いして顔を洗った…後に財部実行は述べている。
1865年5月5日、午前中にシンガポールに到着。彼らはここで、初めてパイナップルを食べた。「味は日本の桃のようで、形は丸く少し長く、皮は松の皮に以て黄色で実は白く、漢字にすると松笠果物ではないか」と感想を述べている。
翌日、シンガポールを出航する際に新たに20人程のオランダ人が乗船してきた。
松村淳蔵はオランダ人乗客が家族との別れの際にキスをする姿に驚き、「夫が妻の口を吸って別れた。その姿が痛々しく見える。一度では落ち着かず、また吸い合っていた。
船を見送る人は何百人も居たが、他の人など関係ないようだった。子供にも同様に親が口を吸い別れていた。私はこういうことは初めて見るので、とにかく驚いた。親しき人の別れには口を互いに吸うのが最も良い礼儀であると聞いた。」
夕刻、次の目的地「ペナン島」に向けて出航。
留学当時、大目付。島津門族で「一所持」格の出身。32歳。
薩摩伊佐郡大口領主。
後年は新納中三の名でも知られています。
渡欧中は、五代・寺島・堀を伴いヨーロッパ各地を回り、各国の視察をしながら、紡績機械や武器の買い付けなどをしました。そして、西洋と日本の教育の違いを目の当たりにした彼は、帰国後すぐ11歳の息子をフランスに留学させています。
帰国後は薩摩藩の家老となりますが、明治元年に家老職を辞任します。その後、一時は中央官吏になるのですが、後年は鹿児島県に戻り、奄美の「大島島司」として奄美の人々のために尽力しました。
明治22年(1889)12月10日 57歳で死去。
留学当時、32歳。
藩医であった伯父の養子となり、長崎や江戸で医学とともに蘭学を学んでいた寺島は、島津斉彬のもとで蒸気機関研究やガス燈・写真機・電信機などの製作実験なども行いました。斉彬の死後、再び江戸へ戻り、文久2年(1862)には幕府の文久遣欧使節団の一員として福沢諭吉らとともにヨーロッパ諸国を回っています。帰国後、薩摩藩の船奉行をしていたときに薩英戦争が起こり、五代とともにイギリスの捕虜となりました。
渡欧中は、主としてイギリス外務省との外交交渉にあたりました。
慶応2年(1866)村橋とともに帰国。帰国後は外交官として条約改正に取り組み、外務卿・文部卿・元老院議長などを歴任しました。明治26年(1893)6月6日60歳で死去。
留学当時、29歳。
安政4年(1857)より藩命により、長崎で航海術を学び、文久2年4月には幕府貿易使節船千歳丸に便乗して上海に渡航、蒸気船を購入しました。
薩英戦争の時、イギリスに拿捕された3隻のうちの1隻がこの青鷹丸です。拿捕された船からの下船を拒否したため、寺島とともにイギリスの捕虜となりました。その後、長崎に滞在中に留学計画のもととなる「五代友厚上申書」を提出し、留学計画の実現のためにも力を尽くしました。
渡欧中は、新納・堀とともにヨーロッパ各国を回り、各国の視察をしながら、紡績機械や武器の買い付けなどをしました。慶応2年(1866)新納・堀とともに帰国。 帰国後は参与職外国事務掛・外国官権判事・大阪府権判事兼任などを歴任し、大阪に造幣寮(造幣局)を誘致するなどしていますが、明治2年(1869)年には官界を去り、以後大阪で実業家としての道を歩み、明治14年(1881)官営物払い下げ事件に絡み政商とも呼ばれますが、大阪経済に多大な功績を残しました。大阪商工会議所初代会頭。
明治18年(1885)9月25日、49歳で死去。
留学当時、19才。
長崎のオランダ通詞(通訳)堀家の生まれ。長崎出身。
通訳として参加。五代友厚の長崎海軍伝習所時代から親交があったようです。
薩摩藩英国留学生として渡欧中は、新納・五代・寺島とともにヨーロッパ各国を回り、慶応2年3月帰国しました。五代が実業界に転進してからは五代の事業を助け、五代の死後は遺族の世話をしていたそうです。
堀家と薩摩藩の関係は深く、島津重豪が『成形図説』の編纂のために、孝之の曽祖父にあたる堀家5代堀門十郎を薩摩藩に召抱えています。
明治44年(1911)67歳で死去。
天保9年(1838)1月27日町田久長(伊集院郷石谷領主)と母国子の長男として出生。
留学当時、大目付。薩摩藩開成所掛(学頭)島津門族で「一所持」格の出身。27歳。
薩摩日置郡石谷領主。18歳で江戸「昌平坂学問所」で学び、文久3年(1863)には大目付となり、薩摩藩開成所開設後は開成所学頭も兼務となっています。
慶応3年(1867)6月末、帰国。渡欧中、大英博物館やケンジントン博物館などを見学し、感銘を受けていた町田久成は廃仏毀釈による文化財の破壊や、文化財の海外流出を残念に思い、博物館建設や文化財の保護、調査・報告を進言する『大学献言』を太政官に提出しました。その後、博物館建設のために尽力し、博物館の初代館長となりました。
明治22年(1889)突然、官を辞し、晩年は滋賀県三井寺の子院光浄院の住職となりました。
明治30年(1897)9月15日、上野の寛永寺明王院にて療養中、滞在先の韻松亭で息を引き取る(59歳)。
留学当時、当番頭。「一所持格」の出身。22歳。
鹿児島を出発してから、ロンドン到着直後の様子のわかる「畠山義成洋行日記」を遺した人です。また、留学して一年ほどたった慶応2年(1866)夏には、朝倉・中村のいるフランス旅行に出かけ、見聞を広めています。
イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、森有礼、鮫島尚信、吉田清成、松村淳蔵、長沢鼎とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ行きました。しかし、1868年6月にはハリスのもとを離れ、1868年9月にニュージャージー州のラトガースカレッジに入学しました。
その後「岩倉使節団」に招聘され、1873年9月使節団とともに帰国。帰国後は文部省に出仕し、東京開成学校(東京大学の前身)校長、東京書籍館・博物館館長などを勤めました。
明治9年(1876)10月20日フィラデルフィア万博視察から帰国する船中、34歳で死去。
留学当時、当番頭。「寄合格」の出身。17歳。
慶応2年7月11日長崎着。
戊辰戦争に従軍後の経歴は不明。奄美の風俗・実情を記録した史料『南島雑話』・『遠島日記』を残したことで知られる名越左源太の息子。留学を辞退した2人の代わりに留学生に選ばれました。
大正元年(1912)11月7日 65歳で死去。
留学当時、御小姓組番頭。「寄合並」格の出身。22歳。
羽島へ向かう前日に、留学を辞退した2人の代わりとして留学生に選ばれました。 慶応2年5月24日、阿久根着。村橋が他の留学生より早く帰国したのは精神的なバランスを崩したためとも言われています。
帰国後は、戊辰戦争に従軍し、函館戦争終結の和平交渉にも一役買いました。
そして、明治4年(1871)より開拓使に出仕します。
留学中に見た西欧の近代社会、近代農業を手つかずの大地で実現する夢を膨らませ、函館近郊の七重開墾場の開設、札幌の琴似に養蚕を軸とする屯田兵村建設に従事しました。 また、ドイツで醸造技術を学んだ中川清兵衛を雇い入れ、麦酒醸造所を造るプロジェクトのリーダーとなりました。醸造所は初め東京に設け、成功したら札幌に建設するという予定でありましたが、様々な観点から初めから北海道に作るべきという稟議書を提出し、それが認められ醸造所は札幌に建設されました。
この開拓使札幌麦酒醸造所が、現在のサッポロビールの前身となりました。
この他、葡萄醸造所、製糸所、種畜牧場、鮭ふ化場、鶏卵ふ化場、製物試験所の創設にも敏腕を振いました。
ところが明治14年(1881)、五代友厚が絡む官営物払い下げ事件の直前、突然開拓使を辞職し、雲水の旅にでます。その後の足取りはあまりわかっていません。
11年後、10月12日神戸又新日報に「鹿児島県鹿児島郡塩屋村 村橋久成」と死亡記事が掲載され、その死が人々の知るところとなり、人々を驚かせました。
明治25年(1892)9月28日 49歳で死去。
留学当時、薩摩藩開成所句読師。蘭学専修。医師。21歳。
長崎に遊学し、蘭学を修め薩摩藩開成所句読師となる。
留学中、慶応2年1月イギリスから、フランスに留学先を代え、慶応3年(1867)帰国。
帰国後は藩の開成所語学教師となった後、明治政府に出仕し、フランス人技師フランソア・コワニエの通訳を勤めるともに、兵庫県の生野鉱山の開発に取り組みました。現在では「銀の馬車道」とも呼ばれる、生野鉱山と姫路市飾磨港を結ぶ鉱山関連物資輸送用の馬車道、「生野鉱山寮馬車道」の整備や、生野鉱山の近代化に力を尽くしました。
晩年は京都に隠棲し、大正14年(1925)1月24日、81歳で死去
薩摩藩開成所訓導師。英学専修。20歳。
1866年夏、吉田清成とともにアメリカに旅行し、この時、宗教家ハリスを紹介されました。イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、森有礼、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵、長沢鼎とともに、アメリカのハリスのもとへ向かいました。畠山・吉田・松村らがハリスのもとを去った後も、森・長沢とともにハリスのもとへ留まりますが、明治元年(1868)6月ハリスの薦めによって森とともに帰国の途に着きました。
帰国後は明治政府に出仕し、外交官としてイギリス、フランス、プロシャとの外交を掌握し、5年後には帰国して外務卿の寺島宗則のもとで外務大輔(次官)となりました。3年後の明治11年(1878)には駐仏特命全権公使として再び渡仏し、その2年後にはポルトガル・スペインの公使も兼ねるといった多忙きわまる生活を送っていました。その過労から脳出血を起こし、明治13年(1880)12月4日、公務中に35歳の若さで客死しました。12月8日、パリのモンパルナス墓地で盛大な葬儀が営まれ、この時かつて薩摩藩英国留学生として共に過ごした森有礼が敬愛の意を込めた弔辞を読み上げています。
薩摩藩開成所第一等諸生。英学専修。23歳。
留学中の1866年夏、森有礼とともにロシア旅行に出かけています。
イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、森有礼、鮫島尚信、畠山義成、吉田清成、長沢鼎とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ向かいます。しかし、1868年6月にはハリスのもとを離れ、1868年9月にニュージャージー州のラトガースカレッジに入学しますが、その後1869年にはアナポリス海軍兵学校に入学し、留学時に与えられた海軍術を学ぶという課題を全うしました。
明治6年(1873)11月帰国。その後は海軍兵学校校長として、日本の海軍教育に力を注ぎました。
大正8年(1919)1月7日76歳で死去。留学以後、変名「松村淳蔵」でその生涯を過ごしました。
留学当時、薩摩藩開成所第二等諸生。英学専修。17歳。
留学中の1866年夏、松村淳蔵とともにロシア旅行に出かけ、「航魯紀行」という旅行記を残しています。
イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、鮫島尚信、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵、長沢鼎とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ向かいました。畠山・吉田・松村らがハリスのもとを去った後も、鮫島・長沢とともにハリスのもとへ留まりますが、明治元年(1868)6月ハリスの薦めによって鮫島とともに帰国の途につきました。
帰国後は明治政府に出仕し、後には初代文部大臣を勤め、日本の教育制度の充実に力を注ぎました。しかし、廃刀論や契約結婚・英語教育論などにも現れる革新的な森の考えは、当時の日本では反発を生み、明治22年(1889)2月11日「大日本国憲法」発布の日、国粋主義者によって暗殺されました。享年41歳。
留学当時、薩摩藩開成所第三等諸生。蘭学専修。21歳。
土佐藩の出身で、尊皇攘夷派の土佐勤王党の一員として吉田東洋暗殺事件を起こし、薩摩藩邸に匿われた大石団蔵のこと。薩摩藩に取り立てられて後、高見弥一を名乗りました。 帰国後、いったんは明治政府に出仕し、大阪運上所勤務を命ぜられますが、明治5年(1872)には鹿児島に戻り、その後鹿児島で算術教員として過ごしました。
明治29年(1896)2月28日鹿児島で死去、52歳。
留学当時、薩摩藩開成所第三等諸生。蘭学専修。23歳。
帰国後、戊辰戦争に従軍し、明治元(1868)年7月8日26歳の若さで戦死。
留学当時、薩摩藩開成所第三等諸生。蘭学専修。20歳。
1866年夏、鮫島尚信とともにアメリカに旅行し、この時宗教家ハリスを紹介されました。イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、森有礼、鮫島尚信、畠山義成、松村淳蔵、長沢鼎とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ向かいました。
しかし、1868年6月にはハリスのもとを離れ、1868年9月にニュージャージー州のラトガースカレッジに入学し、その後ウェスレイアン大学で政治経済を学び、銀行保険業務を修得しました。
明治3年(1870)冬、帰国。翌年から大蔵省に出仕し、岩倉使節団に随行し外債募集にあたり、明治7年(1874)以後は米国特命全権公使として、条約改正に専念しました。 明治24年(1891)8月3日、46歳で死去。
ハリスのもとに残らなかったものの、ラトガース在学中洗礼を受けており、留学中に出会ったキリスト教の影響は大きかったようです。
留学当時、薩摩藩開成所第三等諸生。英学専修。13歳。
薩摩藩の暦学者の家系である磯長家の4男。留学生の中では最年少でした。留学後は「長沢 鼎」の名を生涯名乗り続けました。
イギリスでは、ロンドン大学に入学はせず、スコットランドのアバディーンにあるトーマス・グラバーの実家に寄宿しながら、地元のジムネイジウム中学に通いました。地元の新聞に名前が載せられるほど、優秀な成績を修めたようです。イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、森有礼、鮫島尚信、畠山義成、吉田清成、松村淳蔵とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ向かいます。他の留学生たちがハリスのもとを離れる中、長沢だけはハリスのもとに残り、ハリスの後継者のひとりとなりました。彼は単にハリスの事業を引き継いだだけでなく、カリフォルニアでのワイン醸造を成功させ、人々に「ブドウ王」と称されました。アメリカに永住し、その地で82歳の生涯を閉じました。昭和9年(1934)3月1日死去。
1983年にレーガン大統領が来日した際、国会で「侍から実業家になった長沢鼎は私たちの生活を豊かにし、日米友好の歴史の中で特筆すべき」と国会の演説で敬意を表したことから広く世に知られるようになりました。
留学当時、薩摩藩開成所諸生。蘭学専修。17歳。町田久成の次弟。
慶応2年夏、帰国。
明治3年10月、島津久光の声がかりで小松帯刀の養子になりましたが、明治5年9月25日(1872)小松帯刀の長男清直に家督を譲り、その後はよくわかっていません。
留学当時、薩摩藩開成所諸生。蘭学専修。14歳。町田久成の末弟。
慶応2年夏フランスに渡り、普墺戦争を見学しています。8月、帰国。
その後の経歴はあまりわかっていませんが、財部家に養子に入った彼が、後年留学当時のことを思い出して語った「財部実行回顧談」という史料は、留学生関係の史料のなかでも非常におもしろい史料として知られています。
留学当時、長崎遊学生。英学専修。蘭医ボードウィン門下生。22歳。
留学中、慶応2年1月イギリスから、フランスに留学先を代え、明治元年(1868)帰国。 帰国後は薩摩藩開成所のフランス語教授となりますが、山縣有朋・西郷従道らの通訳として再び渡仏、以後政府に出仕、ついには外交官として各国(イタリア・オランダ・デンマーク)を回ることとなり、晩年は貴族院議員となりました。
明治35年(1902)10月30日、58歳で死去。