1854年ペリー来航後、日本はアメリカ、イギリス、ロシア、オランダと和親条約を締結したことによって開国を余儀なくされます。そこで、1855年、西欧諸国との外交問題を処理するための諮問機関として「蕃書調所」が開設されました。しかし、幕府内での海外知識の欠乏が指摘され、同年、西洋各国の軍事、砲術などに関する書物を取り集めて調査、翻訳にあたる機関として「洋学所」が設立されます。1856年3月になると、この洋学所の名称を「蕃書調所」と正式に決定し、同年5月7日、蕃書調所出役教授手伝の一人として寺島宗則が任命されました。蕃所調所では、毎日100人ほどの生徒が通い、寺島は生徒らの指導、また外交文書の翻訳など忙しい日々を過ごします。
約1年後、寺島は当時の薩摩藩主・島津斉彬の侍医として帰藩が命じられます。これに対し、幕府側は寺島の実力と才能を認めていたのか、在官のまま寺島の帰藩を許可します。そして、寺島は斉彬が情熱を注いでいた集成館事業に関わっていきます。
1858年斉彬の死後、斉彬の父・斉興の侍医となります。しかし寺島はすぐに江戸に戻り、1859年5月、以前の職「蕃書調所出役教授手伝」に復職します。寺島は晩年この時のことを「外交文書の内容は機密事項に属していたため、厳重な監視の下で訳業をおこなった。また、国際法、政治、法律など西洋の社会全般に関する知識に乏しかったため、その内容を理解できず大変苦しんだ・・・」と語っています。
外薗