今から123年前の1893年(明治26年)4月28日、生野支庁長を務めていた薩摩スチューデントの一人である朝倉盛明が辞職しました。
朝倉は、1867年(慶応3年)にフランスより帰国し、薩摩藩開成所の語学教師として勤務しました。その後、鉱山学の知識もあったことから藩のお雇い仏人鉱山技師コワニエの通訳として起用されます。そして、コワニエが新政府の鉱山顧問として招聘されたのを機に、彼も会計官鉱山司判事試補に任ぜられ、1868年(明治元年)に通訳の任務も兼ね、コワニエと共に廃坑同然となっていた兵庫県生野銀山の地質調査を命じられます。この調査後に生野銀山は日本初の官営鉱山として操業開始となり、最新の設備と技術が投入され、朝倉はその長として鉱山事業の復興発展のために尽力。坑夫たちと寝食を共にしながら、ひたすら鉱山の開鑿と技術者の養成指導に従事しました。やがて佐渡金山と共に宮内省御料局生野鉱山となり、皇室財産へ編入。1889年(明治22年)のことです。朝倉は引き続き生野鉱山の責任者として生野支庁長を務めることとなります。そして、1893年(明治26年)病気を理由に依願退職。退官後、妻子の待つ大阪の江戸堀の私邸に移ります。夫人は虚弱な体質だったため、子宝に恵まれず養女を迎えていました。その後、1895年(明治28年)に能見家より次男盛彦、当時2歳を養子として迎え入れ、1902年(明治35年)京都御所近くの今出川に転居。一切の世事から離れ、京都帝国大学に学ぶ盛彦の成長を見守りながら、悠々自適の生活を送りました。