鮫島尚信 ポルトガル・スペイン両国公使に・・・

 

IMG_175 アメリカから帰国した鮫島尚信は、外務省(明治2年7月、外国官から外務省へ名称変更)で外務大丞として働き始めます。当時の外務大輔(次官)は、同じ薩摩スチューデントの寺島宗則でした。そして寺島を中心に、幕末に結んだ欧米との不平等条約改正の準備に取りかかり、それと並行して外交官の派遣制度が発足されます。そこでヨーロッパ派遣外交官として選ばれたのが鮫島尚信です。鮫島(当時25歳)日本初のヨーロッパ派遣外交官の誕生でした!

最初の管轄はヨーロッパ全部、特に英国、フランス、ドイツの三国を任されました。しかし、負担が大きすぎるということで、寺島が駐英大弁務使としてロンドンに赴任し、鮫島はフランス専任外交代表になりました。不平等条約の改正に奔走する一方、日本の若い外交官のために、ヨーロッパの外交習慣や外交上の基礎知識に関する「手引書」を作成します(“Diplomatic Guide”「外交入門」)。しかし、鮫島は体調を崩し、一旦、日本に帰国し静養することとなります。

病もようやく癒えた頃、鮫島は外務卿(現在の外務大臣)・寺島の下で働き始め、元福岡藩士・太田廣正の娘サダと結婚、そして特命全権公使に任命され再びサダ、一番下の弟盛と一緒にフランスへ渡ります。その約2年後には、ポルトガル・スペイン両国公使に任命されます。とにもかくにも鮫島の公務は多忙を極め、体調は日に日に悪化していくのでありました…。

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