146年前の10月頃(1870年10月頃)、長沢鼎はコーネル大学に入学します。1868年、ハリスのコロニーから日本に帰国した森有礼と鮫島尚信は外国事務局の要職に就き、畠山義成、吉田清成、松村淳蔵はラトガース大学に入学し(松村はその後アナポリス海軍兵学校へ転入)、薩摩スチューデントの中でハリスの元に留まっていたのは長沢だけになっていました。1869年になると、明治政府は米国にいる長沢を含めた4人を合衆国留学生として認め、翌年、長沢(18歳)は政府留学生としてコーネル大学に入学しました。長沢は後に入学した理由を新聞インタビューの中で「森の出世をみて発奮したからから」と答えています。大学では化学実験をおこない、元々の秀才をあらわすかのように、実験結果をしめす化学方程式までだしています。大学がクリスマス休暇に入ると、長沢はハリスのコロニーに帰省しますが、休みが終わっても大学には戻らず、翌年退学します。その理由として長沢は病気のためとだけ言い、詳細はわかっていません。
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