今から150年前の10月(1866年10月)、町田清蔵(当時16歳)が留学先のフランスから長崎に到着ました。到着後、グラバー商会を訪問すると、五代友厚がちょうど幕吏と会談中で、そこで久しぶりに五代とグラバーと再会することができました。嬉しさのあまり大声で「五代さん只今帰りました」というと、グラバーから「今会談中だから気をつけなさい」と注意されてしまいます。その後、鹿児島に帰ってきた清蔵でしたが、両親は息子の帰藩をとても喜びます。清蔵は日本の服を持っていなかったので、親類のもので服を仕立ててもらい、藩主に拝謁します。その2年後、留学中から決まっていた北郷主水の養子になり、異人館の通弁役を任命されます。また、日本文が上手くできなかったため、それを心配した兄の町田久成から東京に来て漢学を学びなさいという手紙を受け、清蔵は上京し、塾で漢学を学び最終的には詩もできるようになりました。1872年になると海軍兵学校に入学します。その2年後には退学し、1878年財部家の養子となります。
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