147年前の10月10日(1869年10月10日)は、新納久脩が謹慎処分を受けた日です。1866年4月(慶応2年3月)に帰国した新納は、帰藩と同時に御家老外国掛に任命され、藩の枢機に参画します。そして鳥羽伏見戦争後の展開に備えて、藩内では久光による藩制改革が行われます。諸役の廃止や職制の一部を変更するなど、新納は役場の統廃合など行政面を担当しました。 その後、大目付・国分地頭を兼務することになります。しかし、1868年11月(明治元年9月)家老並びに兼務をすべて辞任します。理由は改革途中、国分郷で何か紛議を生じ、自殺者が一人出てしまうという事件が起こってしまったために地頭としての責任をとったのだと言われています。そして一年後の1869年10月10日(明治2年9月6日)、5年間の謹慎処分を受けたのでありました。
この頃、鹿児島では戊辰戦争から凱旋した中下級兵士団を中心とした政権が樹立し、門閥層はほとんど追放…。新納もその余波を受けたのかもしれません。
畠中