1900年(明治33年)9月、大阪商工会議所に初代会頭である五代友厚の銅像が建立されました。碑文は、同じ薩摩出身の重野安繹(日本初の文学博士)によるものです。
「君の諱は友厚、通称才助、鹿児島藩士。幕末日本の前途を察し、安政年間長崎へ行って航海術を学んだ。そして藩の密命をおびて上海に潜航、軍艦を購入し、帰国後はその艦長となった。のちに、寺島宗則等留学生を率いてヨーロッパを巡遊、各国の商工事業を研究し大いにうる所あり、帰って藩の商事を運営すると共に、初めて長崎にドックを設けた。明治になって政府の参与に任ぜられ、外国官会計官判事、大阪府判事を歴任、従五位に叙せられた。その後、官を辞して大阪に居を移し、金銀分析所を設け各地の鉱山を開いた。また商業会議所を創立、政界と財界の間をとりもって諸企業を奨励し会社を作り後の人の範となり公益をはかったことはまことに大であった。明治十八年九月二十五日、五十才にして病のため没した。勲四等旭日小綬章を受く。知人や商業会議所議員が相談して、商業会議所前庭に肖像を建て追慕の意を表すことにした」と記されています。
畠中