1879年(明治12年)の夏、日本では清国から九州地方にコレラが伝わり、阪神地方などでも大流行。政府は予防仮規則を急いで発布します。また防疫体制を固めるため、外務卿の名をもって防疫停船仮規則を各国公使に通知し、同地方から東京湾に来航する船舶は神奈川県長浦港(現:横須賀市)に設けた検疫場で10日間停船の上検査を受けるものと定めました。ところが、清国から直航してきたドイツ商船ヘスペリア号はこれを無視!ヘスペリア号事件です。これに対し、寺島はドイツ側に主権侵害として抗議します。この事件は不平等条約改正の必要性を一般民衆にも知らしめたものとなりました。領事裁判権の撤廃なくして、国家の威信も国民の安全も保たれないとして世論が沸騰します。これを民権派の諸新聞が煽りました。政府としても民権派の攻撃をかわすため、寺島を文部卿に転任させる以外方法はあるまいと判断します。寺島もまた政府の方針とはいえ、関税自主権回復にこだわった自分の外交上の失策として転任を承諾します。そして、1879年9月10日、寺島宗則、文部卿に就任となったのです。
畠中