141年前の今日、村橋、ビール醸造人中川清兵衛を雇う!

2016-08-25 13.43.201875年(明治8年)8月28日、勧業課長の村橋久成は、開拓使東京出張所に姿を見せた中川清兵衛に採用辞令を渡しました。その文面は何度も手が加えられており、「契約途中で退職するのはまかりならない」と、高い給料を払って雇うからには何としても成功させるべし、後には引かせない、という村橋の激しい意気込みが伝わってきます。村橋33歳、中川28歳、事業責任者と醸造人の二人三脚の始まりとなります。

ところで、この中川清兵衛という人、新潟県長岡市生まれの人で彼も薩摩スチューデントとちょうど同じころに渡英しているのです。でもその動機や密航の手助けは誰だったのか、渡航費用はどうしたのか、滞英生活はどうであったか、またイギリスからドイツへ移った理由とか一切不明だそうです。そんな不思議な人物ですが、1872年(明治5年)、新政府から在独日本人留学生たちを監督する役割を担った青木周蔵(のちに外交官また外務大臣として活躍)の目に留まり、この青木の紹介でティヴォリ・ベルリン醸造というビール会社で働くことになります。その会社で中川は、厳格な徒弟制度の下、まる二年間、みっちり修業漬けの日々をおくり一通り醸造工程をマスターしたとして「修業免状」を授与されたのでした。それを機に、青木は中川に帰国を促し、開拓使長官黒田清隆に紹介状を書いて与えたのでした。ちなみに、この中川清兵衛ですが、晩年は横浜で過ごし、本人の希望で末期の水はサッポロビールだったそうです・・・。

畠中

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