五代・寺島、熊谷での潜伏生活・・・

2016-08-24 20.18.388月15日の続きです。。。鹿児島を退去したイギリス艦隊は、1863年8月21日の夜から24日の朝(文久3年7月8日~11日)にかけて、次々に横浜に帰港しました。そして、ユーリアラス号に乗艦していた五代と寺島はどうしていたか・・・、二人はこの中で意外な人物と出会います。それは清水卯三郎という商人なのですが、17歳で学問に目覚め、学費を工面しながら箕作阮甫の塾に通うなど寸暇を惜しんで勉学に励んだ人物でして、寺島とは立石得十郎の塾で知り合った仲でした。彼がイギリス艦隊に乗り込むことになったのは、乗船が決まっていた人が怖くなって急に辞退したこと、そして自分に依頼がきたとき「何か国のためになることもあるだろう」と思い、幕府の許可をもらって通訳として乗船。二人ともまさかの再会でした。寺島は幕府に出頭すると言ったのですが、清水は反対しました。そんな事をしたら幕府側は薩摩藩へ二人を引き渡し、藩では三隻の蒸気船拿捕に関しての責任を追及、また自ら敵艦へ乗船した事でイギリス側のスパイとみなされ処刑されるだろう。清水は二人を救う事を決意、この時の心境を「国のためなる人を得たるは却って幸いなり。暫く潜めおかば国のためになる時あらんものを・・」と自伝に書いています。
そして8月23日(旧暦7月10日)、アメリカ領事館の元書記官で貿易商を営んでいるヴァン・リードに会い、五代・寺島両人の釈放への助力を依頼しました。リードはキューパー提督に二人の釈放の交渉をします。提督は「彼らの要望で乗艦させただけで、これから先は自由だ」と寛大な計らいをしてくれました。その夜、五代と寺島はリードの手配で軍艦から艀に乗り移って羽田村の浜に上陸。この後、8月25日(旧暦7月12日)二人は清水の親戚にあたる四方寺村(現:熊谷市四方寺)の吉田六左衛門のところへ案内されます。そこでしばらく潜んだ後に吉田市右衛門の家に移りました。こちらの方が周囲に人家が少なかったためのようです。清水は二人を預けた後、江戸へ向かいます。五代と寺島は、人目を避けての寂しい田舎暮らし、悶々とした日々を過ごします。清水はたまに帰郷し、イギリスや薩摩藩の動向、幕府を取り巻く情勢など伝えました。潜伏生活に耐えかねた五代は、世情が大きく動いている中でじっとしていることができずに長崎へ行くと言い出し、寺島を残したまま出立。長崎に着いたのは年が明けた1864年(元治元年)4月頃のことなのですが、この潜伏中に街中で薩摩藩士に姿を見られてしまいます。その知らせを受けた家老小松帯刀は、川村純義に五代に会いに行くように命じます。五代は、イギリス軍に亡命した事を詫びると同時に、藩の富国強兵策と貿易の振興、留学生の派遣など具体的に取りまとめた上申書を提出。これが国父・久光と藩主・忠義に認められ、藩への帰参が許されたのであります。

一方、寺島はどうしているか・・・。この頃、イギリスとの和議の交渉に貢献した清水は、頻繁に江戸の薩摩藩邸に出入りしていました。元治元年の年明けには、南部弥八郎から「松木(寺島)の居所を知らないか」と尋ねられていたのですが、「知らない」と答えていました。今はまだ処罰されてしまうかもしれないと考えたからです。清水は、寺島の師である川本公民に相談。川本は「時勢も大きく変化している。藩も処罰はしまい」と。その翌日、清水は南部と会い、「寺島を処罰しない」という確証の上で、イギリス艦船から救い出した二人を故郷に匿っていたことなど話したのであります。その後しばらくして「藩命により戻るべし」という書状が届き、寺島の帰参が実現したのです。

ここで清水が交渉に貢献した・・・、となっておりますが、実は大久保利通から「藩主や藩上層部は和睦の考えだが、血気にはやる若い藩士たちも多いことから、しばらくの間、戦争を引き延ばすようイギリス側を説得してほしい」と頼まれたのでした。清水は横浜の公使館へ行き、ニールと交渉。ニールは「和睦の考えがあるのなら、艦隊が来航しないうちに早く決めろ」と言いました。これを聞いた薩摩藩側は驚き、イギリスと直接交渉することに・・・。翌日、清水が藩の全権である重野安繹らをニールに引き合わせたことにより、両者の話し合いが始まったのでした。

清水卯三郎がもしイギリス艦隊に乗り合わせていなかったら、清水の働きがなかったら五代も寺島もその後の活躍があったのか・・・?また、薩摩藩も・・・どうなっていたのでしょう?

畠中

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