幕末の名君 島津斉彬、突然の死・・・

2016-08-24 09.39.511858年8月24日(安政5年7月16日)早朝、島津斉彬、49歳で亡くなりました。1858年8月16日(安政5年7月8日)、斉彬は午前10時から午後5時まで調練場で城下士たちの調練や、砲台での大砲試射を視察。翌8月17日(旧暦7月9日)、午後の二の丸での調練には、少々腹痛と風邪気味だということで出なかったそうです。そして、その夜悪寒下痢、翌日になると高熱が出て、それ以降は1日三、四十回の下痢が続き・・・、死亡。8月27日(旧暦7月19日)、幕府に斉彬の名義で跡目相続願を出して28日に死亡が発表され、菩提寺福昌寺に埋葬されました。正室の恒姫も斉彬の死から二か月後、あとを追うように江戸藩邸で亡くなりました(大正6年に鹿児島に改葬)。

斉彬は、8月23日(旧暦7月15日)の夜、死期の近いことを感じ、翌日家老島津久徴・新納久仰・側役堅山武兵衛を呼んで遺言を残そうと考えましたが、朝までもちそうにないと思ったのか、夜中、小納戸頭取・山田壮右衛門をよびよせて数か条の遺言をし、あとで三人に伝えるように命じました。遺言の内容は、久光か忠義のどちらかを、斉興に相談のうえ後継者をさだめ、娘・暐姫の婿養子にし、哲丸はその順養子にせよと遺言、朝6時前に息絶えたそうです。このとき、かけつけた久光には日本の政治が大変な時期にきていること、朝廷尊崇のことを心掛けよと遺言。結局、久光は辞退し、忠義が藩主になりました。哲丸は1859年2月4日(安政6年1月2日)に亡くなりました。忠義は1864年に暐子と結婚しますが、暐子は18歳で難産のため1869年に亡くなります。翌1870年にその妹の寧子と結婚しますが、寧子も1879年(明治12年)5月にこちらも難産のため25歳で亡くなります。斉彬の血筋をひく者は、重富島津家を継いだ珍彦の夫人典子(明治36年死亡)ただ一人となってしまいました。また、藩当局にとっても斉彬の死は、大きな混乱・・・。家老新納久仰が勝海舟からの悔み状への返書に「一通りならず当惑の次第、暗夜の灯を失い候とはこの事」と書いているそうです。

ちなみに、この時の家老新納久仰は薩摩スチュ-デント一行の正使新納久脩の実父にあたります。

畠中

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