今から146年前の1870年8月16日(明治3年7月20日)、五代や税所などに見守られ、正妻のお千賀さんと側室のお琴さんの末期の水を含みながら、小松帯刀は34歳という若さで亡くなりました。大阪市天王寺区夕陽丘に埋葬され、1876年(明治9年)に小松家一族が眠る園林寺跡の墓地に改葬されました。跡を継いだのは、お琴さんとの間に生まれた安千代です。お千賀さんが鹿児島の小松屋敷に連れ帰り、大切に育て上げたそうです。そして、第30代清直となります。お琴さんは長女のスミと大阪に残り、安千代の録を分けて暮らしたそうです。このとき、面倒を見たのが五代でした。靭の屋敷(現:大阪科学技術センター)に住まわせたようです。
今回は、小松帯刀が「禁門の変」直前に、お千賀さん宛ての手紙をご紹介します。 (前略)此方長州人多人数伏見辺へ出張、そふぞうしき事ニ候へとも、まづまづ無事ニ而仕合ニ御座候、(中略)何か遣したくそんじ候へとも、このころハ誠ニ誠ニいそかしく、さしての見立てもこれなく、夏のきもの用あみ縞壱反、匂い香壱箱遣し候まま、うけとりなされ候、拙者ニも当夏ハあみ縞計ニ而相すみ候、よほと涼しきものニ御座候、此方も中々あつさきひしく、かえって其方よりもあつきとそんじまいらせ候、しかし、よるハよき肌持にて仕合ニ御座候、西瓜ハよほとよろしき所ニて、毎日毎日たへまいらせ候、(中略)かへすがへすいといなされ候やう、くれぐれいのりまいらせ候・・
京は何かと騒々しいが、無事に元気でやっているから心配しなくてもいいですよ。。何か贈り物をしたいのでが、あまりに忙しく・・・見立てる時間も少なく、夏用のきものとお香を送ったので使ってください。。自分も気に入って使っています。京の西瓜もおいしく、毎日食べています。故郷の吉利のことが思い出されます。くれぐれもお体をお大事に・・・
こういった感じの内容ですかね・・・(^^ゞこの手紙、実物を見ますと何とも帯刀の優しさが伝わってくるようで(#^.^#)・・・。
小松家は清直の次男・重春が相続しましたが、重春には嗣子がいなかったので西郷隆盛の弟の従道の七男・従志が養嗣子となって家督を相続しました。その家系が今日まで続いています。
畠中