8月11日の続きです。。。到着した翌日、8月12日(旧暦6月28日)海岸から小舟に乗って二人の役人が旗艦ユ-リアラス号を訪れ、来意を尋ね引き返していきました。その後、今度は四人の役人がやって来ました。代理公使ニ-ルは、これらの役人に藩主に対する要求書を手渡し、24時間以内に回答することを求めました。イギリス側の要求は、生麦事件の加害者をイギリス士官の立会いの下に糾問し、処刑すること。そして被害者並びにその遺族に分配するために2万5千ポンド(10万ドル)を支払うことの二か条でした。 これに対し薩摩藩側は、藩主は今、遠方にいるので回答時間に猶予が欲しいと要望し時間稼ぎをし、策を練ります。
第一案はニ-ルら幹部を交渉のために上陸させ、殺害するというもの・・・。この計画に沿って、薩摩藩側はニ-ル及びキュ-パ-提督らに上陸を求めますが、拒絶されてしまいます。
第二案はイギリス艦に乗り込み、兵士を全滅させ艦を奪取するというもの・・・。これには生麦事件の当事者である奈良原喜左衛門と海江田信義が呼び出され、策と人選を任されます。そして、この日の夜、二の丸において軍議が開かれ「スイカ売り決死隊」作戦を決行することに・・・。藩士の中からメンバ-を募り、8艘の舟に分乗し、スイカ売りの商人に化けてイギリス艦に乗り込み、兵士を斬り、艦を奪う・・・。翌8月13日(旧暦6月29日)の午後、決死隊出発の際、二の丸の玄関先に集合し、藩主から門出の酒杯を賜ったそうです。しかし、この計画も失敗します。そして、この日の夜に薩摩藩側から回答書が届けられます。もちろん、イギリス側が満足するような内容ではありません。翌日、ニ-ルはキュ-パ-提督に強硬手段に踏み切ることを要請します。実は、到着した日にイギリス側は艦載ボ-トを使って湾内の偵察をしていおり、薩摩の汽船の存在を把握していました。後にこの汽船を拿捕することに・・・。翌8月14日(旧暦7月1日)、提督はパ-ル号の艦長に対し、翌朝、艦隊の一部を率いて三隻の汽船を拿捕するよう命じます。この措置をとることによって、薩摩藩主も要求に応じるかあるいは、より満足すべき解決策を提案してくるのではないかと考えました。8月15日(旧暦7月2日)早朝、パ-ル号・ア-ガス号・レ-スホ-ス号・コケット号・ハヴォック号は、脇元浦に碇泊していた青鷹丸・白鳳丸・天祐丸を拿捕!これに対し薩摩側は、同日の正午、イギリス艦隊に対する砲撃開始!・・となるのですが、その前に、この時拿捕された船を任されていたのは、松木弘安(後の寺島宗則)そして五代才助(後の友厚)でした。ア-ガス号に乗艦していたウィリアム・ウィリスが兄に宛てた手紙の中で「乗組員の中には、遣欧使節団に随行してイギリスに行ったことのある男が一人いて、彼は、英語が堪能でした。(省略)乗組員はすべて上陸させるという命令でしたが、その船長は、切腹しなければならないか、藩命によって死罪になるか、そのどちらかになるだろうといったので、上陸しないで残ることを許され、結局、我々はこの二人をユ-リアラス号で横浜まで連れて帰りました」と記しています。さて、イギリス側は砲撃が開始されたことに、びっくり!!!(この後の戦いの様子は省略します_(._.)_)結局、イギリス艦隊は8月11日(旧暦6月27日)に到着して以来、7日間湾内に留まりました。砲火を交えた戦闘は、8月15・16日(旧暦7月2・3日)の一日半でした。この戦闘で旗艦ユ-リアラスの艦長と副長が戦死。イギリス側としては、万が一、戦闘になってもそれほど強力な抵抗を受けるとは思っていなかった・・・。しかし、全く想定外なことになり、目的だった要求の貫徹も果たされぬまま、戦闘半ばで退去します。ア-ネスト・サトウは日記に「我々の大部分は、強い不満の気持ちを抱いて引き上げた。誰もが鹿児島湾を去るかわりに、翌日もう一度引き返して戦うことをのぞんだ。誰もが、艦長と副長の死を悼んだ。それを考えても、強烈な打撃を与えるべき理由があったのである」と記しています。サトウは日記の中に、攻撃を打ち切って引き上げなければならなかった要因の一つに、石炭・糧食・弾薬などの不足をあげています。またイギリス側には、上陸作戦の提案もあったようなのですが、捕虜になっていた五代と寺島に「薩軍の強弱」を問いました。二人は上陸した際、イギリス側には到底勝算はないと答えたので、提督はしばらく考えたのちこれを聞き入れたのでした。艦隊は船の損傷を修理し、8月17日(旧暦7月4日)鹿児島湾を引き揚げ、横浜に戻っていきました。二人を乗せたまま・・・。
次回は、8月25日にお届けします(^^ゞ
畠中