1874年(明治7年)7月、五代友厚はなんと羽島の金山を取得・・・。この件につきましては、詳細がよくわかりませんので・・・、鉱山がらみの話から五代の娘である藍子さんのことをご紹介したいと思います<(_ _)>
1876年(明治9年)10月1日、生母は宮地勝子さん(京都の宮侍の娘)、大阪市西区靭の五代邸(現:大阪科学技術センター)で生まれました。正妻:豊子夫人には子供はなく、勝子さんは長女・武子、次女・藍子と二人の娘をもうけました。この次女の藍子さんの誕生の時、友厚が製藍事業を開始した頃のことで 「出藍の誉」の願いをこめて名付けたそうです。友厚の死後は豊子夫人との折り合いが悪く、とうとう生母・勝子さんとも別れて半田銀山を経営していた義兄の龍作さんを頼り、身を寄せます。そして居間にあった法律、鉱山、文学などの書物を読破。その後、向学心に燃えて単身東京に上京します。仏英和女学校(現:白百合学園)に入学し、8年間のフランス語課程を終了し、優秀な成績で24歳の時卒業。当時の日本人卒業生は3人だけだったそうです。卒業後、「父の鉱山事業を継ぐ!」と決意。友厚が臨終の際、ベルツ医師に『わしの家業を受け継ぐ者は「藍」のような気がする』と語ったことを医師から聞いたことが一層拍車をかけたのかもしれません・・・。その後、五代の名を守るため縁談も断り通し、とうとう松方正義の前で独身宣言・・・。藍子さんはいつも絣の着物に男物の下駄をはき、断髪といういで立ち。交友関係は政界トップに人脈の広い頭山満や久原房之助(叔父・藤田伝三郎)などと親しかったそうです。この他には、下田歌子など・・・。彼女を自分の娘にと嘱望したそうで、藍子さんが鉱山入りした後は手紙がよく届いていたようです。1919年(大正8年)3月、43歳の頃鉱山入り。友厚がかつて所有していた三重県いなべ市北勢町の治田鉱山を買い戻し経営します。残念ながら採掘成績ははかばかしくなかったようですが、鉱山事業に生涯をかけました。
そして1965年4月、88歳の生涯を閉じました。
畠中