「銀の馬車道」工事着手

2016-07-15 19.10.01今から143年前1873年(明治6年)7月某日、フランス鉱山技師のコワ二エの義弟であるレオン・シスレーが馬車道の実際的な工事担当となりました。いわば、日本最初の産業道路を作ったのです。
当初は、生野鉱山を近代化にするために人力や馬に代わる輸送手段として、鉄道の導入が検討されていました。しかし、巨額の建設費がかかるうえ、50キロに及ぶ距離と生野峠を越さなければならない工事の難しさもありました。またそれだけの物質輸送の需要が見込めるかと考えると実現の可能性は低かったのでした。また渡し船での輸送も検討されましたが、いつでも水があるというわけでもなく、同様費用がかかるということでこれも不可能でした。そこでシスレーは、村落や田畑の中の里道などを生かして馬車道を築造する計画を立てました。明治元年に官営となり、大器械の稼働も本格的に進めるうえで、馬車道の完成を急ぐ必要があり、現実性があったのでした。馬車道修築の責任者である朝倉盛明はコスト重視で綿密に見積りを行いました。その工事とは、ヨーロッパの最新技術「マカダム式舗装道路」を取り入れて行いました。修築は進みますが、難工事を極めたのが生野橋の築設でした。明治以前は川に橋を架けているところは少なく渡し船を利用していました。その橋の築設を2年後の8月に完成させます。(修築碑は今でも3代目の生野橋に残っています。)そしてもう1つの橋「盛明(せいめい)橋」生野を出て最初に渡るこの橋に初代生野鉱山長の名前を使っています。
馬車道の修築には3年の歳月を要しました。この馬車道が生野鉱山の物質輸送に利用されたのが、播但鉄道が開通するまでの20年ほどにすぎませんが、馬での輸送の大変さも関係にあるようです。しかし、細く曲がりくねった道を、人や馬の背中に物を乗せて歩いた時とは考えられない通りやすい広い道を利用できたことは、抗夫の人々の負担も和らげたものだったと思います。だからこそ、今でも生野の人々に「銀の場馬車道」として愛され、語り継がれているのです。

久徳

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