今から149年前(1867年)の7月10日、薩摩スチュ-デントの森有礼、鮫島尚信、松村淳蔵、吉田清成、畠山義成は連名で、ベルギー貴族モンブランと薩摩藩の関係に対する建言書を藩庁に提出します。
元々、薩摩スチューデントらは英国でモンブランと出会い、五代友厚、新納久脩、堀孝之の欧州視察にもモンブランは同行しています。五代らはモンブランとの間に「商社設立仮条約」を締結、さらにパリ万国博覧会参加も決めました。そして薩摩藩からは岩下方平ら使節団が万博準備のため派遣されます。岩下らの任務は万博の他に、実はモンブランを藩政顧問として薩摩に一緒に連れて帰ること、「商社設立仮条約」を本契約にすることも担っていたのです。しかし、この岩下らのモンブランへの接近に対し、英国関係者の不評を買ってしまうのです。そこで、森ら5名の薩摩スチューデントは連名で藩庁に対し長文の建言書を送ったのでした。建言書の内容は次の通りです(一部抜粋)。「今度、岩下氏はモンブランはじめ多くのフランス人を同伴して帰国するとの事であるが、なぜあのように信用のおけない人物を雇うのか合点がいかない。モンブランのようなベルギーの一貴族が、何らの他意なくして薩摩藩のために尽力するはずがないではないか。たとえその意思があったとしても、国内事情に通じないで、なぜ藩政の一端を任せられるというのか。そのことを思うと国家の前途が安じられて夜もろくに寝られないほどである。」このような建言書を提出した背景には、オリファントやハリスの強い影響があったと言われています。実際、森ら5人の薩摩スチューデントはこの建言書を送った後、米国のハリスの元へ旅立っていきます。
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