163年前の今日 ペリー来航(@_@)


2016-07-06 15.30.591853年(嘉永6年)7月8日、浦賀沖に四隻の黒船を率いてマシュー・カルブレイス・ペリーがやって来ました。日本中が蜂の巣をつついたような大騒ぎ・・・、多くの野次馬がその黒船を一目見ようと押しかけました。実はペリーが現れる前にまるで、アメリカ人としてからの最初のかのように思われがちですが、実はこれよりも前にアメリカ人が訪れていました。 まず民間人でした。1837年(天保8年)、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民7人の送還と通商・布教のために来航、友好親善のためでした。大砲も備え付けられていたのですが、わざわざ外しています。しかし、幕府は異国船打払令のため、砲撃して追い返してしまいました。

次は1846年(弘化3年)、アメリカ東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビッドル代将の来航。ペリーの前任者です。1830年頃から生産力が急速に拡大したため、アメリカは市場を求めて中国との通商条約を締結。それに引き続き日本とも条約を結ぶために7月19日(書籍によっては、20もしくは21日)に軍艦二隻で浦賀付近に到着。早速、浦賀奉行所の役人が通訳の堀達之助を伴い、調査を開始。日本を訪れた目的を確認します。この時、ビッドルは「中国と同様に、日本が海外貿易のために開港するか、それが可能であるならばアメリカ船が日本との貿易をする際の交渉ができるかどうかを聞くために、友人として日本を訪問した」と答えました。これに対し、幕府側は薪水及びある程度の食料を与え、通商拒否の基本方針を書付で渡して退去を通告。ビッドルは仕方なく了承し、帰国の途につくことに・・・。しかし、ここで事件が起きてしまいます。「ビッドル暴行事件」(事件の説明は長くなりますので、省略します<(_ _)>)。帰国後、ビッドルはこの事件のためにアメリカ国内での評価が下がります。黙っておめおめと帰って来たのかと・・・、国の威信を傷つけられたとなったわけです。もともとアメリカという国はイギリスの圧政をはねかえして独立した国です。イギリスのように武力をかさにきたやり方には反感を持っていました。だから日本との関係も友好的に進めていきたかった・・・。しかし、結果は失敗。ペリーはビッドルの轍を踏まないよう日本のことをよく研究し、その結果「砲艦外交」という手段で日本にやって来ます。それとあともう一つですね、なんだそんなこともあったの(@_@)って言いたくなるようなことがありまして・・・。それは1844年(天保15年から弘化元年に代わる年)オランダ国王ウィレム2世が将軍宛に親書を送っているのです。内容は「開国勧告」。世界情勢の変化を説き、そろそろ開国政策に転じてはいかがでしょう・・・と。やはり、この忠告もこの時、聞き入れなかった。この9年後には、幕府は黒船を見て仰天し、海軍の必要性を認識。慌ててオランダに海軍のことを教えてほしいとお願いし、長崎海軍伝習所が創られることになります。

ペリー来航前年の嘉永5年(1852年)11月2日付、島津斉彬が久光宛の手紙で「来年ペリーが来航するという情報が入った。これに対し、老中・阿部正弘は強い危機感を抱いている様子」と伝えています。ペリーが来るという情報は、斉彬が長崎奉行所の通詞から得たようです。               ちなみに、この手紙の中に出てくる老中・阿部さん、ビッドルが来た時・オランダ国王からの国書に対する回答を出した時、この方が老中首座だったわけですが・・・。重責が祟ったのか39歳の若さで亡くなってしまいます。消火器系のガンだったと言われています。                   さて今度は嘉永7年(1854年)5月29日付、これも久光宛の手紙で「日米和親条約が結ばれ、下田・箱館が開港されることになり、ひとまず3年の間はアメリカとの戦争は避けられた」また「老中・阿部から琉球にも条約締結を求めてきたことに対する相談があり、斉彬は琉球の開港・貿易は認めざるほかない」と意見を述べています。薩摩藩には早くから外国船が来航し、特にアヘン戦争後は琉球にイギリス船やフランス船が次々に訪れて通商を要求されるという状況でした。諸外国に対する脅威は幕府よりも早くからあり、情報収集には余念がなかった。薩摩藩の情報網は各地へ広がっていきます、江戸・横浜・京都・大阪・岩国・小倉・太宰府・長崎へと・・・そして海外にも。

畠中

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