長州ファイブ、密航(^・^)そしてロンドン・・・

2016-06-29 10.32.56今日は密航の段取りとロンドンに到着してからのことをご紹介します。これが最終章となります(^^♪

まず、井上馨は駐日イギリス領事のガワ-を訪ね洋行の希望を伝えると、渡航についての協力を求めました。ガワ-は彼らの決意を理解し、後の段取りをマセソン商会の横浜支店に繋ぎます。その横浜支店の支店長はガワ-の実兄・サミュエル・ガワ-(以下、「S・ガワ-」)が務めており、五人の相談に応じました。この後、問題になってくるのが渡航費用です。S・ガワ-は、船賃が一人につき約四百両、これにとりあえず1年目の学資と生活費を合わせて一人当たり千両が必要だと告げます。彼らは頭を抱えました・・・。しかし、井上馨は「男子たるもの、たかが四、五千両の金で大志を曲げてなるものか」と。その時、井上の頭には江戸の下屋敷にある一万両の御用金のことが浮かびます。井上たちは、当時江戸藩邸で裏金を管理していた村田蔵六(のちの大村益次郎)に五千両の借り入れを申し入れますが、村田は自分の一存ではそれだけの大金を動かすことはできぬと難色を示します。それならばと、今度は大黒屋番頭・佐藤貞次郎を訪ね、藩邸に保管してある一万両を担保に 五千両の借り入れを要請したのです。佐藤は、事前に周布から留学費用の協力方を頼まれていたこともあり、村田のお墨付きがあることを条件に貸付に応じました。村田も彼らの熱意に押されてこれを承諾。これで資金の目途が立ち、今度はその五千両をマセソン商会へ持って行き、ドルに両替して同時に同商会に預託します。船は、同商会の上海行きの便船・チェルスウィック号を利用、闇夜にまぎれての出発でした。6日後、上海に到着した彼らは、上海の繁栄振りにびっくり 租界が設けられ、多くの商船や軍艦が出入りし、まさに国際貿易都市でありました。この時のことを井上は「我が国人も攘夷の謬見(誤った考え)を破り、開国の方針を執って進まねば、将来国運の隆盛は望むことは出来ないのみならず、却って自ら衰亡を招くことに至らう」と・・・。そしてマセソンの上海支店へ向かい、S・ガワ-の紹介状を渡してイギリス行きの船の手配を依頼します。それから10日ほどたち、ようやく乗船が決まりますが、5人は別々の船で渡ることになってしまいます。井上と伊藤は300トンほどのペガサス号、山尾ら三人は5600トンのホワイト・アッダ-号という貨物輸送用の快速帆船。ここでマセソンの上海支店長から尋ねられます「君たちは何を学びに行くんだ」と、そこで「ネイビ-」と答えるところを「ナビゲ-ション」と答えてしまった・・・(>_<)やっちまった・・・。実は、この時点で英語が話せたのは井上勝ただ一人、その英語力もどうやら意思疎通ができる程度だったようなのです。これを聞いた支店長は親切に、それなら実際に体験できるようにと船長に訓練を施してくれるように頼んでくれたのです(@_@;)。これにより彼らの船旅は見習い水夫として、来る日も来る日も甲板掃除や帆の上げ下ろしなどにこき使われ、食事も毎回ビスケットと塩漬けの牛肉といった粗末なものでした。何より大変だったのは水夫用のトイレは無く、甲板から突き出た横板の上で用を足さないといけなかったこと・・・また、伊藤は航海中に雨水を飲んでひどい下痢に見舞われ「あの時ばかりは筆舌に尽くせないほどの苦しみだった」と後年述べています。そんな大変な船旅の末、井上・伊藤がロンドンに到着したのは、日本を出て四か月ほどたった頃。二人は迎えに来ていたマセソン商会の社員にホテルまで案内され、先に到着していた山尾ら三人と再会しました。彼らは旅の疲れを癒した後、基礎学力を身につけ、ロンドン大学に入りました。そしてロンドンでの生活が半年を過ぎた頃、ロンドン・タイムスの記事で四か国連合艦隊が下関攻撃を計画していることを知るのです。世界最強の軍事力を持つイギリスやそれ以外にもアメリカ・フランス・オランダと・・・、長州藩などひとたまりもない・・・。井上と伊藤は、何としても藩主や上層部に事の重大さを伝え、戦争を回避させなければと帰国を決意します。 1864年4月にロンドンを離れ、二人が横浜に到着したのは下関戦争勃発の約二ヶ月前のことでした。二人はロンドンを発つ前、山尾たち三人に「我ら二人は志半ばで帰国せねばならないが、君たちは必ずや生きたる器械となって帰ってきてくれ・・・と思いを託したのでした。このあと、残った山尾・遠藤・井上勝の三人は薩摩スチュ-デント一行と出会うのであります。この出会いもご紹介しますので、お楽しみに(#^.^#)

畠中

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