153年前の今日、長州ファイブ 横浜港から密航・・・

2016-06-26 16 04 381863年(文久3年)6月27日、のちに「長州ファイブ」と呼ばれることになる五人の若者たちが横浜の港からイギリスへ向けて出帆しました。このお話は3日間にわたり、お届けしたいと思いますので、お付き合い下さるよう宜しくお願い致します<(_ _)>   まず今日は、その5人の若者を紹介させていただきます。

この一行のリーダー格、井上馨。天保6年11月28日(1836年1月16日)長州藩士・井上光亨の次男として生まれる。1851年(嘉永4)に兄とともに藩校明倫館に入学。1855年(安政2)に藩主・毛利敬親の参勤に従い、江戸へ。そこで伊藤博文と出会う。維新後は、第5代外務卿、初代外務大臣、第5代農商務大臣、第10代内務大臣、第6代大蔵大臣など歴任。                         遠藤謹助、天保7年2月15日(1836年3月31日)萩藩士の家に生まれる。維新後は、1870年(明治3)井上馨の紹介で造幣寮に出仕し、造幣権頭に抜擢されるが、お雇い外国人の造幣寮首長・キンドルと対立したために一旦大蔵省へ移り、1881年(明治14)に復帰し、1893年(明治26)退官になるまで局長を務めた。その在任期間は、今日に至るまで歴代2位。外国人技術者に頼らない日本人だけの手による貨幣づくりに尽力。                                山尾庸三、天保8年10月8日(1837年11月5日)に生まれる。繁沢石見という藩士の家来であったが、経理の才を認められ江戸遊学の機会を得られる。その後、桂小五郎(のちの木戸孝允)と出会い、1861年(文久元)その口添えで幕府がロシア領アムール地方へ派遣する亀田丸に乗船し、現地視察の後は井上勝とともに函館の武田斐三郎に師事した。翌1863年1月(文久2年12月)には、高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文らとともに英国公使館焼き討ちを実行・・・(@_@;)。維新後は、新政府に出仕し工部省の設立に携わる。1871年(明治4)、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立。工部権大丞、工部少輔、工部大輔を経て、1880年(明治13)工部卿に就任。工部関連の重職を任された。また工学関係だけでなく、身体障害者の人材教育にも熱心に取り組み、1880年に楽善会盲訓院を開校。1915年(大正4)には日本聾唖協会の総裁になっている。                           伊藤博文、天保12年9月2日(1841年10月16日)、周防国熊毛郡(現・山口県光市)に百姓・林十蔵の長男として生まれる。1849年(嘉永2)に萩に移住。父・十蔵が萩藩の下級藩士の養子となったため、以後伊藤姓を名乗る。1857年(安政4)、江戸湾警備のために相模に派遣される。その時上司として赴任してきた来原良蔵と出会い、その紹介で松下村塾に入門。1857年(安政5)、松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行。帰藩後は来原に従い、長崎へ遊学。その後、来原の紹介で来原の義兄・桂小五郎の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで井上馨と出会う。       維新後は、薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任。                          井上勝、天保14年8月1日(1843年8月25日)長州藩士・井上勝行の三男として生まれる。1848年(天保19)に野村作兵衛の養嗣子となり、野村弥吉と改名し藩校明倫館で学ぶ。黒船来航に伴い、長州藩が幕府からの命令で相模警備にあたることになり、1855年(安政2)に父とともに宮田(現・横須賀市)に赴任。そこで伊藤と出会う。維新後は、1869年(明治2)に新政府に出仕し、大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正となり、さきに大蔵省へ出仕していた伊藤に仕え近代事業に携わることになる。その後、日本最初の鉄道となる東京~横浜間鉄道建設に尽力。また外人技師主導からの自立を目指し、日本人鉄道技術者を養成。1871年からの京都~大津間の敷設には自ら技師長となり、初めて日本人だけで工事を完成させた。

とりあえず、今日はメンバー紹介でした。明日はなぜ洋行の決意したかを紹介します(^^)/

畠中

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