148年前の1868年(慶応4)6月19日、京都府が開設され、京都府庁が現在地に定められました。王政復古の4カ月後、日本初の地方自治体の誕生でした。1985年(昭和60)、京都府が記念日として制定し、毎年記念式典を開催しています。実は、この京都府の歴代知事の中に、薩摩藩士であった中井弘という人物がおりました。今日は、この中井の経歴を少しだけご紹介します。
1839年(天保9)1月14日、薩摩藩士・横山休左衛門の長男として生まれる。1858年(安政5)あるいは1859年(安政6)の頃、五代を頼り長崎に出た後、単身京都へ・・・。さまざまな勤王の志士活動を行いますが、そのうち幕吏に追われるようになり、再び長崎の五代のもとへ・・・。五代は中井の要望を聞き入れ、自分も世話になった宇和島藩主・伊達宗城の庇護を求め、同藩の家老松根図書に接触。松根は中井を藩主・伊達公に引き合わせ、中井は京都宇和島藩の周旋方に就きました。その後、中井は長崎で活動し始め、五代の紹介で坂本龍馬や後藤象二郎と出会うことになります。 1866年(慶応2)、幕府は第二次長州征伐のため警戒を強め、脱藩浪人や各藩から京に上った疑わしい人物を厳しく取り締まるようになりました。このため中井も危うくこの網にかかりそうになってしまうのですが、この時もやはりイギリスから帰国したばかりの五代を頼り、龍馬・後藤らの勧めで渡英することに・・・。表向きは、前年に留学した薩摩スチューデントを追っての遊学、実際は幕府から姿をくらますためでした。この後、中井は薩摩スチューデント一行と3ヵ月ほど行動を共にし、1867年5月に町田久成らと帰国。ちなみに先の話ですが、この町田久成(1885年に三井寺光浄院僧正となる)とは、中井が滋賀県知事時代(新庁舎が完成するまで県庁舎は三井寺内におかれていた)の時も親しく付き合っていたようです。また、中井が三度目の欧州旅行の見聞録の中で、エジプトに寄港した時「銅銭四枚ヲ買求メ友人町田久成氏ニ送ラントス」と記しています。五代と同じく、町田とも生涯を通じての親交があったようです。
さて、この帰国後、中井は坂本龍馬や後藤象二郎の手足となって大政奉還の重要性を説いて奔走します。このことが薩長の主だった志士たちから一目置かれる要因となったのです。ほかにも、中井についてはたくさんの話があるのですが、今日はこのあたりで終わりとします。また、いつか・・・。
畠中