慶応1年(1865年)アデンを出発してから1週間後の6月8日、一行は午前10時過ぎに下船し、艀(小船)に乗り換えてスエズに上陸します。そして海岸に近い宿屋に入ります。この頃はまだスエズ運河は工事中であり、紅海と地中海の連絡方法は鉄道以外はありませんでした。この鉄道は、イギリスがフランスに対抗してエジプトにおける文化的同調の調達・安定した支配を維持するための手段として、自国の資本と技術をもって建設しました。1854年にアレクサンドリア―カイロ間が完成し、1858年に残りのカイロ―スエズ間が完成、7年の歳月をかけて、約420kmに及ぶ長大な鉄道を作りあげたのでした。
畠山6・7名の留学生は次の発車時刻までの待ち時間を使い、付近の見学に出かけました。といっても・・・見渡す限りの砂漠地帯で、草木1本生えていません。しかし、そこで彼らは珍獣に出会い驚きます。「此辺は駱駄と云ふ者を役し候。至極静に歩み候ものにて、首は鶴首の如く、尾足は手に似て、砂漠数千里通行するには、数十日の水を一処に呑、のとに溜め少しつつ呑んで行候由(以下略)」(松村日記)そうです・・・ラクダでした。
ラクダ見物に夢中になっている彼らを促して、ホームが案内した場所は「洗濯工場」と「製氷所」でした。蒸気を利用した機械で天然の氷が製造されることに驚きます。製氷所見学後、スエズ運河の工事現場を見学に行きますが、その内容はまた次の機会、ご紹介します。
・・・汽車は予定通り午後11時頃に到着、黒煙を吐きつつ、汽笛を鳴らしながら轟音を響かせてやって来た巨大な物体を目の前に恐怖と驚きを隠せない彼ら。当時の日本の陸上交通は、馬か駕籠、もっぱら徒歩でした。文久2年(1862年)幕府が派遣した第1回遣欧使節の1人、寺島宗則は既に蒸気機関車に乗っていました。留学生一行は寺島から話を聞いてはいたものの、受け入れがたい何ともショッキングな出来事だったことでしょう。
興奮冷めやらぬ留学生一行を乗せた列車はスエズを発車し、明日次の目的地に到着します。お楽しみに~
久徳