五代友厚 留学生派遣を藩に上申

IMG_2152152年前の6月(1864年6月)、薩摩スチューデントの生みの親と言われている五代友厚が、留学生派遣の上申書を薩摩藩に提出しました。

薩摩藩は、薩英戦争(1863年)を機に海外貿易の急務と富国強兵策するために、倒幕そして国家統一の気運が高まっていきます。蒸気船天佑丸と青鷹丸が拿捕されたときに捕虜となった寺島宗則と五代友厚は、イギリス艦隊が横浜に着くと釈放されましたが、英国の内通者として幕府と薩摩藩の両方から指名手配されることになります。たまたまイギリス艦上で通訳として乗船していた清水卯三郎がしばらく身を隠しておいた方がよいと、清水の親戚の吉田六左衛門を頼り熊谷に身を置くことになります。

数ヵ月後、五代は長崎に下り潜伏。その後寺島も江戸に向かい、7月ごろ岩下方平と会い開陳しています。英国と薩摩の国力差を痛感していた五代は、英国に学ぶために留学生を派遣すべきであると、この時「上申書」を藩庁に提出します。

上申書の内容は最初、自分自身の罪を認め、拿捕されたことを大いに詫び、藩に必死の覚悟で計画を申し述べています。

①米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得よ。

②その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ。

③砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けること、となっています。

また、留学生については、英仏両国留学生を十六名並びに通訳一名選ぶ。

一、追々家老職に就くべき者四名  御軍賦役のうちより二名   攘夷説を唱える荘士より三名  以上9名は、英仏の軍務、地理、風俗などを巨細に見聞する。

二、郡奉行のうち一名  これは、英仏の農耕に用いる機械を調査研究する。

三、台場築白砲術に心得ある者二名  彼らには、英国の砲台、築城及び、大砲、小銃などの製造法の概略を学ばせる。

四、藩校造士館のうちより一名  英仏諸学校並びに病院、幼院、貧院などの処置を研究する。

五、工作、機械などを取扱う者で、絵図面作成が達者な者三名  彼らは、わが国にとって特に必要不可欠な人間であり、その責務は英仏機械取扱方を覚え、絵図を写してくることである。

六、通訳一名 以上、十七名を本年(元治元年)秋に英仏両国へ渡航させ、同地に約百五十日滞在させて各人に与えたてた課題を十分に研鑽させることはもちろん、他にも利用、研究すべき事物があればよく調査し、それがわが国にとって必要価値のあるものと認めたてるならば、直ちに報告させる。

以上が五代の上申書の留学生計画案の内容です。渡航費用から雑費に至るまで、留学中の諸費用の具体的金額が算出されており、五代の入念な計画には、感心するばかりです。

 

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です